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PA卓を背にして座らせ、暴露話のひとつでも訊き出せればしめたもの。まことイージーでチープなドキュメンタリー・フィルムがロック映画の主流となる昨今、役者が演じてみせる待望久しい伝記映画の登場である。
題材に選ばれしは、ザ・ランナウェイズ。我が国でとりわけ人気を博したオール・ガールバンドのさきがけにして、売れすぎたがゆえにパンクロックの歴史書ではいつも別項に追いやられる不幸な存在。時代が進み、情報が正しく伝わるようになり、「訂正書」が差し込まれるようになる。「LA、サンセット大通りの路地裏にて保護された家出娘五人組。筋金入りのパンク」。 1975年。似た境遇のふたりの少女が同じ街に暮らしている。双子の姉・マリーとは仲良しで、しかし母親とはそりが合わず、アル中の父親の面倒を見ながら、空疎な日々をおくるシェリー・カーリー。高校の文化祭の出し物で「エア・デヴィッド・ボウイ」を演じることくらいしかフラストレーションの解消法を思いつかない。 シェリーとは対照的に、フラストレーションを日々撒き散らしている少女がいる。なけなしの小遣いで買ったレザージャケットに身を包み、スージー・クアトロに憧れ、弾けないギターをかき鳴らす。大人どもとは対等の姿勢を貫き、おちょくることなど屁とも思わない。ジョーン・ラーキンは、ジョーン・ジェットと名乗った。 ときはパンク前夜。サンセット大通り。ここにロドニー・ビンゲンハイマーの<イングリッシュ・ディスコ>があることは過去記事で紹介したとおり。この夜も踊りに来ていたジョーンは、お客の中にキム・フォウリーの姿をみつける。この街の番人にして、奇才音楽プロデューサー。そして、変質者。 ジョーンはすぐさま氏のもとへ駆け寄り、「女の子だけのバンドがやりたい」と思いの丈を伝える。これに対し、フォウリーはそっけなく、しかし、たまたま居合わせたサンディ・ウエスト(R.I.P)をジョーンと引き合わせる。ドラムスとギター、とりあえずふたりでなにか始めてみろということらしい。 フォウリーは約束どおり、ふたりの稽古場へ顔を出す。ベース、リードギター、次第にバンドの骨格が出来上がっていくが、フォウリーはバンドにさほど興味があるふうではない。この日も稽古の様子を見るとはなしに眺め、男性誌をペラペラとめくっている。そこへぴたりと手がとまり、脳内にアイディアが点灯する。「このバンドに必要なもの」。そう言い放ち、ジョーンらに見せたのはブロンドヘアのピンナップガールが写るページだった。 本能の赴くままに<イングリッシュ・ディスコ>へと向かい、ズカズカと潜入。まるでジャングルで獲物を狙う獣のように、金髪女性を片っ端から「視姦」していく姿は、フォウリーという男の本質をとらえている。そして壁際の席に座るシェリー・カーリーに視点が定まり、クローズアップしていく様子は、奇才プロデューサーたる「嗅覚」をみごとに描き出す。シェリー、ジョーン、両雄が揃い、ザ・ランナウェイズがここに誕生する。 シェリーとジョーンを演じるダコタ・ファニングとクリスティン・スチュワートの演技力に舌を巻く。ジョーン・ジェット自身が指揮にあたっていることもあるが、スクリーンに映し出されるふたりはまごうことなき本人である。あとでレコード・ジャケットと見比べるとまるで似ていないのだが、この錯覚こそが役者の力量といえよう。実はリタ・フォード役が最も似ているのだが、そうと気づかぬほどふたりに視線が釘付けとなる。なお、ジャッキー・フォックスは映画化に反対し、自身の名を使用することを拒否。ベースプレイヤーは架空人物となっている。 監督は本作が初メガホンとなるフローリア・シジスモンディ。ホワイト・ストライプスなど、これまでに数多くのミュージック・ビデオを手がけてきた。カナダ、オンタリオ州ハミルトン出身。この地が、かのFOREGOTTEN REBELSのホームタウンであることは、熱心なパンク・ファンならばご存知のことだろう。シジスモンディも間違いなく聴いていたに違いない。アップテンポで、ドライヴ感のある作風は、レベルスゆずりとも感じ取れる。 シェリー・カーリーの著書に基づき、脚色を加えず、史実ありのままが描かれる。日本で熱狂的に歓迎される様子はストーリーの肝となる。 シェリーの、あまりにも有名な白いコルセットにガーターベルトの衣装姿がここで初めて登場する。「オール・ガールバンド」は大いに注目を集める一方で、色物として扱われ、そうした「期待」をシェリーは一身に背負わされた。加えて、父親の面倒を姉・マリーに丸投げしていることへの罪悪感。バンド内の軋轢、プレッシャー――。「みんなが私にしてほしいのはこういうことでしょ」。あの衣装は、シェリーの哀しみの象徴であったことを、我々は30余年の歳月を経てはじめて知ることとなる。 「チェリー・ボム」をプレイするライヴ・シーンは思わず立ち上がってしまうほどの臨場感である。しかし、会場の空気は1977年のそれではなく、当代のライヴ会場に一気に引き戻される。「スポット照明の進化」に気づかなかったのは盲点であり、日本人ファンのファッションから髪型までもとことん忠実に再現しただけに、ツメの甘さが残念でならない。 それは些細なこととして、大きな不満がある。バンドの醜悪性といおうか、ダーティーさがソフィスティケートされている点である。シェリーとジョーンの性模写はレディースコミックよろしく美しく描かれるが、実際には「ハードコア」であったはずである。 ふと、「乱れたセックス」という言葉を思い浮かべる。環七スピードキャッツのライナーノートにて、King Joeが彼女らを称したとびきりいかした一文。いわく「彼女らは“乱れたセックス”に明け暮れる連中である」と。むろん、親愛の情を込めたジョークであり、バンドが標榜するランナウェイズのイメージをそのまま持ってきたパロディであるわけだが、この映画からは、この「乱れたセックス」がまるで伝わってこない。ランナウェイズが「ズベ公」であることを忘れてはならない。女性監督に若い人気女優――。脚本に、メガホンに、遠慮が入った。若き日のクロエ・セヴィニーならば、あるいは演じきっただろうか。 一方で、シェリーが精神を病んでいく様子はリアリティにあふれている。このとき17歳。ありとあらゆる重圧に耐えるには若すぎた。その結果、バンド内は核分裂を起こし、シェリーが77年末にバンドを去ったことはファンならずともご存知のとおり。尻すぼみに終わっていっただけに、とくべつドラマ性はない。さて、そのラストをどう描くのか――。終演時間が刻一刻と近づき、この一点に注目した。結果は100点満点。不覚にもじわりと涙がこみ上げた。ロックンロールの栄光と挫折、光と影――。劇場でぜひご堪能いただきたい。 *2011年4月8日付mixi日記にて発表した文章を一部訂正、加筆いたしました。 ![]() にほんブログ村
昨秋1stミニアルバムを発表。地方遠征中の環七スピードキャッツを福岡で見た(1月9日薬院UTERO)。
バンドに興味を持つきっかけは様々だが、なかでもバンド名は需要な入り口といえる。「環七スピードキャッツ」の名を初めて目にしたとき、語呂のよさにシビれ、何度もつぶやいた。「オールガールズバンド」というキャプションも気を引いた。と――むかしの自分ならば、このタイミングでただちにリサーチにかかっただろうが、ちょうど体力減退期。音楽への興味を完全に失していた。 忘れかけていた頃、画像をネット上で頻繁に見かけるようになる。70年代テイストの完璧なリメイク、フォトジェニックさに吸い寄せられることたびたび。5678sのバックダンサーから成るという「出自」を訊き、センスのよさに大いに納得した。やがてyoutubeに動画があがるようになり、ビッチ度まるだしのど迫力パフォーマンスに度肝を抜かれる。これは乗り遅れた!と焦った。そうしたところへタイミングよく今回のアルバム・リリース。一撃で虜となった――と、非常にわかりやすいプロセスでファンになった次第。これはある意味、「DOLL」亡き後、バンドへの「接近遭遇」の典型例といえる。 一時間遅れで会場へ着くと、この日の主催、La-La-Lee'sがプレイ中。元HOOVERSの面々からなる四人組で、女性ベースプレイヤーを配する。まさしく「紅一点」であり、HOOVERS時代よりもビジュアル度が三倍増しとなった。ゲストDJのKing Joe(SOFT,HELL!)が飛び入りしてのGROOVIESのカヴァーが強く印象に残った。 続いて同じく地元・福岡のXL-FITS。メンバーとはたびたびパーティーで会うので、こうしてステージに上がっている姿に違和感を禁じ得ない(失礼)。「フタタ礼服祭」でそろえたような白ネクタイのブラックスーツでキメ、ソリッドで生硬なパンクロックが連射される。北欧の言語にも似たエキセントリックなヴォーカルが真骨頂。「KBD」がもはや遠い過去となった今、こうしたスタイルも絶滅危惧種。続けていくことに価値がある。むろんクオリティあればこそである。 King JoeのごきげんなDJに乗り、いよいよスピードキャッツ登場。スライダースの"Blow The Night"がスピンされるとベースのベーがメチャのりでダンスを決めながらセッティング。まさかリアルタイムではないだろうが、意外なルーツと感じた。メンバー全員ブラック・カラーで統一された衣装。これにレッドがチラホラ交じり、ジョーン・ジェットを想起させる。 と、そこへ――これまたブラックのキャットスーツに身を包んだリリィが姿を現すや、場の空気が一瞬にして張り詰める。「レディースの首領」に男どもの視線は釘付けであり、下半身のヴォルテージは高まるばかりである。ランナウェイズの"Queen Of Noise"でショーは幕を上げた。 「和製ランナウェイズ」と称され、それをセールスポイントとしているだけに、テイストは随所に感じられる。がさつな演奏はこの際、有効に作用し、独特なグルーヴを生む。 パフォーマンスは非の打ちどころがない。舞いが身についているといおうか、アクションにひと時も目が離せない。とくにはヴォーカルのリリィであり、芸能人並みのカリズマ性を湛えている。 アルバム巻頭を飾る「OK!ボーイズ」でフロアの熱気は沸点に達する。70年代末、日本でデビューした米国ガールズバンド、ROXのナンバーで阿久悠作詞による日本語曲。筆者、ROXは一枚所有しているが、このシングル曲は未聴ゆえ、そうと気づかなかった。マニアライクな選曲、それよりもこれを自分たちのイントロデュースチューンに「強奪」してしまう洒落っ気がいい。 満を持して"Cherry Bomb"。鳴海昌明がガールズに書き下ろした日本語ヴァージョンをプレイしている。FiFi AND THE MACHⅢが20年も前にやっており、目新しさは感じないが、“シェリー・カリー・ダンス”(*"Hello Daddy, Hello Mom"のサビ部分でのキメポーズ)まで忠実に再現され、思わずにやける。ピンク・レディー的「ごっこ」ともいえ、賛否分かれるところだが、これがさまになるシンガーはそうザラにはいまい。なにしろ、ストレートのマイクスタンドを手にしての身のこなしが抜群にいい。 「70年代テイスト」と冒頭で記したが、ありがちなリメイクではない。ファッションから化粧、サウンドメイクと細部に到るまでの徹底ぶりは、同時代の不良映画のロケを観るかのようであった。いま、アルバムを聴きながら、ハイライト・シーンが鮮明に思い浮かぶ。また観たいと願わずにいられない。 ベーがMCで語ったとおり、今春、ランナウェイズの伝記映画が劇場公開される。そうしたわけで、今年前半は「ランナウェイズ」がキーワードとなりそうな予感である。映画でのキム・フォウリー役がイマイチさえていない。そうだ、キム・フォウリーは環七スピードキャッツをどう評価するだろうか――。先のことまでも想像をめぐらす興奮の出会い。これまたそうザラにあることではない。 画像はリリィさんから頂いたオートグラフ。サイン蒐集家の面目躍如。 *2011年1月14日付mixi日記にて発表した文章を一部訂正、加筆いたしました。 追記:放置歴4年6ヵ月のブログ、突然の更新に驚かれた方も多いことと思います。みなさん、こんにちは。ブログマスターのnutです。 大好きなUS70'sパンクのシングルをアルファベット順に紹介していこう――という目的で始めたのがこのブログです。開始は04年9月。当初は熱心に取材をし、順調に記事をアップしておりましたが、アルファベット「B」のとあるバンドの情報でどうしても引っかかる点に出くわし、解明できぬまま記事が頓挫、そのままブログが休眠となってしまったというのがことの真相です。 その後、mixiに「音楽コラムふう日記」をせっせと綴るようになり、はや5年半。それをライフワークとしておりましたが、やはりあそこは閲覧者が限られる場であることにいまさらながら気付きました。同時期、友人のちっぽけなブログ(非音楽系)が社会的に大きな影響力を持つに至り、そのプロセスを目の当たりにし、ブログの力を再認識させられたことも刺激となりました。もっと発表の場を広げたいとの思いから、実験的にこの場にmixi連載コラム(というほどのモノではないですが)を載せてみることにしました。ディスクガイドとは性質の違うものですが、お読みいただけると光栄です。 このブログには「訪問者」を追跡する機能は一切なく、一日の訪問者数が記録されるだけです。放置していてもなお閲覧者は「ゼロ」ではなく、何人かの方は再開を待っておられたことと思います。ありがたくお礼を申し上げます。
現在発売中 『DOLL』 8月号のPointed Sticks/ヴァンクーヴァー・パンク特集のなかで、Pointed Sticksのバイオグラフィー&ディスコグラフィーを執筆いたしました。貴重な機会を与えていただいた関口弘氏と、record shop BASE の飯嶋氏に多くの感謝。
ニック・ジョーンズの協力により、'Out Of Luck'のリリックを掲載させてもらいましたが、字数の都合で1番のみとなりました。「2番は?」 というメールをいくつか頂きましたので、ここに完全版をお届けします。 奇跡の来日公演まであと数日。皆さん、楽しんできてください。 Out Of Luck 君に近づきたいなんて一度として思わなかった 恋に堕ちたくはなかったから 君のうわさは色々と聞いていたから 何人ものオトコをこっぴどくふったってうわさを だけど君のことを想うとおかしな気分なんだ そしてわかっているんだ 次にフラれるのは僕だって 君にとって僕はたんなるひとりの哀れなヤツさ 今回 僕はただただ運が悪かっただけなんだ 一緒にいたとき 君はいつも言ってた 「こんなに幸せなのは初めてよ」 君の青い瞳を覗き込んで本気だと思った そして みんなが嘘をついているんだと思った だけど今 君は僕のところに来て 「あなたのことがとても好きだ」 と言う そして 「ただの友達でいたい」 と言う 君にとって僕はたんなるひとりの哀れなヤツさ 今回 僕はただただ運が悪かっただけなんだ 君が僕を好きになることはないとわかっているけれど だからなんだっていうんだ どちらにしても恋に堕ちたんだ 君が僕を幸せにするために品位を落とすことになる 何故って 君のような女の子に恋することは二度とないとわかっているから 訳:emily&nut(拙訳失礼) ![]() たいへん長らく当ブログをほったらかしにしてすみません。それにも関わらず、ご訪問頂いた皆様に感謝いたします。今年に入り、ようやく時間にゆとりが出てきましたので、そろそろ再開したいと思います。例によって更新は不定期ですが、長い目でお付き合い頂けると幸いです。 昨年は2本の仕事を請けました。いまさらではありますが、ここに宣伝させていただきます。 ひとつは、6月にシンコー・ミュージックから刊行された 『ラモーンズ・ファイル』。最終章の 「人物名鑑」 を主に担当しました。クレイグ・レオン、ウォルター・ルアーらラモーンズゆかりの人物を紹介しています。各氏とのメール・インタビューは有意義な体験となりました。知人の紹介、そのまた紹介でようやく本人に巡り合えるという気の長い作業。なかでもダン・ケッセルと出会えたことは奇跡ともいえました。 ダンとデヴィッドのケッセル兄弟は 「Rodney」 の回で紹介しているとおり、フィル・スペクター70年代期のアシスタント・エンジニア/ミュージシャンとして知られる人物です。よく言われるのが 「ふたりはスペクターの用心棒だった」 というエピソード。しかし、これは本人によれば 「まったくのデタラメ。いつの間にかそうした誤解が定着し、ひじょうに迷惑している」 ということになります。伝聞の怖さを思い知らされる一件でした。 ダンからは色々なハナシが聞けました。細部の“裏付け”として、スペクター本人に確認をとってくれるなど、彼の親切には心打たれました。「Rodney」 で書いたことに一部誤りも見つかりました。「再追記」 というかたちで訂正(&補足)しましたので、興味のある方はご覧ください。 ダンは現在、ミュージシャン・エージェント会社やカフェ(*『End Of The Century』 での彼らのインタビュー・ロケ地)の経営、さらにフィルム・プロデューサーとしてマルチに活動する傍ら、自身の気に入ったアマチュア・バンドのプロデュースを手掛けています。なかでもThe DaresというLAのバンドにぞっこんなのだとか。「メンバー全員15歳で、双子の兄弟がいるんだ」。今年中にはアルバムがリリースされるようなので、The Daresの名を記憶にとどめておいてください。 もうひとつ、Psychotic Youthの 『Stereoids』(Target Earth) のライナー・ノートを執筆しました。ヴォーカルのJörgen Westmanは10年来のペンパルであり、Psychotic Youthはフェイヴァリット・バンド。いちどなにかの形でバイオグラフィーを書きたいと思い続けてきました。今回、機会を与えて頂いたTarget Earthに感謝いたします。 本文に一部誤植があります。「④もコリンズのペンによるもの」 とあるくだり、曲番号④は、⑳(="I'm Tired")の誤りです。お詫びして訂正いたします。 今回の取材で、ヤルゲンは数多くのエピソードを披露してくれました。本編に収まりきらなかった“アウト・テイク”の中から、『Stereoids』 のレコーディング時のエピソードをここに紹介いたします。 「スタジオで楽器を録り終えた俺たちは、すべての器材をRune Johansson(*アルバム・プロデューサー兼エンジニア)のアパートに移し、そこでヴォーカル録りを行うことにした。俺たちはいつもの調子でビールを飲んだり、釣り番組を観て夜遅くまで騒いでいたもんだから、同居していたルーンのカノジョは気がおかしくなってしまった。それが原因でルーンはフラれてしまった。ふたりのベッド・ルームをヴォーカル・ブースにしていたのも、いま考えるとマズかったかもしれない」 「俺の息子・Zebulon はそのとき5歳で、おもちゃのドラム・キットを持ち込んで遊んでいた。録音のたびに静かにさせるのが一苦労だった。アルバムのどこかに 「とうちゃん、調子はどう?」 という彼の声が入ってるよ」 Psychotic Youthは昨年末、「バンド・デビュー20周年記念」 として一夜かぎりの再結成ライヴを行いました。オフィシャル・サイトでその全編が公開されていますので、未見の方はぜひご覧ください。ヤルゲンは新バンドBuckshotsに多忙な様子ですが、Psychotic Youthの再活動にも期待したいものです。 次回の更新は3月末頃の予定です。4月には東京へGOMESSを観に行きますので、そのリポートも出来ればと思います。それでは、みなさん、またお会いしましょう。 ![]() ![]() 写真左から、Blue Moon Band のCathy Peters(Vo&Ba)とBob Peters(Vo&G)。MC5狂いの夫と、バンド初体験の幼な妻。「キャシーは今でもあの頃のようにロックしているよ」(ブライアン) ![]() Wormtownの殿堂、〈Circe's〉。77年夏から78年9月23日に閉店するまでのわずか一年間、数多くのライヴがここで行われた。写真は閉店直後の様子らしく、中央に「For Rent」の不動産広告がみえる。閉店理由は 「店主のみぞ知る」(同)。ほどなくしてメキシコ料理店が入居したという。 筆者がはじめてブライアンにコンタクトを取ったのは02年だった。ボストン・シーンにゆかりある人物とメールでチャットするたびに、頻繁に出てくる"Wormtown"という言葉に興味を持ったことがきっかけだった。 ちょうど 「シーン誕生25周年」 ということもあり、ブライアンは貴重なハナシをたくさん聞かせてくれた。それはさながら 「アンコールワット発見」 の驚きであった。 大都市に近接するもうひとつのシーンという意味では、福岡と北九州の関係を思い浮かべる。また、ウースターの人口16万人は我が町とほぼ同じ。そうしたこともあり、より親近感を覚えた。 今回のメール・インタビューで印象的だったのは、過去よりも現在について多くを語っていたことだ。地元誌のアート・音楽欄の記者として、Wormtownの創始者として、昨今のシーンの低迷ぶりに歯がゆさがにじむ。 「残念ながら、Wormtownはいま死んでいる状態だ。我々がコントロール出来ることではないが、諦めてはいない。この町のどこかでギターを習いはじめたばかりのキッズが、自作の曲に "Wormtown"というフレーズを織り込んだり、ポスターに"Wormtown"を冠したりする日が、近い将来必ずやって来るだろう。真の意味で、Wormtown が再び栄光を取り戻し、次世代の素晴らしい冒険へといざなうことを願っている」 〈Beast〉のかつての人気バンド、Commandosも再び活動を開始した。オリジナイターたちにより、シーン復興の兆しはあるのかもしれない。この地のパンク・ロックに興味のある方は、ブライアンの運営するサイト、Wormtown.orgをぜひご覧いただきたい。
Main Street Rag b/w Why Don't You Go Away [US: Beast●710X10] 7" 1977
Wild Weekend b/w Hate You, Want You [US: Beast●BEAST 5] 7" 1980 Milford→Worcester "Wormtown" (MA) 今回も飽きもせずラモーンズのハナシから始める。映画 『End Of The Century』に興味深いシーンがあった。ダニー・フィールズによる回想。「彼らが全米を隈なくライヴ・サーキットしたことで、各地にパンク・シーンが生まれた」と語られるくだりである。 すべてをラモーンズの手柄とするのはどうかと思うが、主語を「パンク・ロック」と置き換えるとしっくりくる。パンクの誕生、その最大の“副産物”は世界各地にアマチュアのオリジナルなロック・シーンを生んだことに尽きる。特に米国では顕著であり、その波は全米主要土地に及び、それぞれ独自のシーンを形成してゆく。 では、小都市のバンドたちはどうしたか――?これは「寄らば大樹の陰」で、近隣の大都市のシーンに「お仲間に入れてもらう」が常であった。80年代以降はバンドの急激な増加により、ど田舎にもシーンが生まれるが、70年代末ではほとんど例を見ない。そんな時代にあり、大都市に迎合することなく、負けず劣らずグレイトな「おらが町のシーン」を築いたのがMA州Worcester(ウースター)のロック野郎である。ここでいう「大都市」とはもちろんボストン。同地からクルマでわずか1時間の距離にあった「もうひとつのマサチューセッツ・パンク」。"Wormtown"こと、ウースター・シーンの魅力に迫りたい。 地理を確認しておこう。ウースターはボストンから西方へ約50キロ、MA州中央部に位置する。人口のうえでは「州第二の都市」ということになるが、その数わずか16万人。ボストンのような華やいだ雰囲気はなく、これといった観光スポットもない。「とにかく何もない。退屈なところ」というのが大方の印象であるようだ。 退屈からの脱出――は土地土地でパンク・ロックが発生する際によく言われる動機だが、ウースターにおいても例外ではない。そしてそれは大都市に暮らす若者に比べ、よりハングリーな叫びとなる。さびれた工場町に住み、日々退屈で気が狂いそうな若者たちにとってパンク・ロックは、鬱積した不満の格好のはけ口となった。 シーンの土台を築いたのはふたりの熱心なロック・ファンである。Brian GoslowとLenny Saarinen(*aka LB Worm)。77年、ブライアンは20歳。町の小さなコミュニティーFM局・WCUWで同年春からDJを務めていた。「コミュニティーFM」とは近年、日本各地でよく見かけるアレである。ベタなトークと懐かしの歌謡曲に終始するような。そんなローカルな雰囲気に似つかわしくない、ホットなパンク・ロックを連日オン・エアした。番組の最初のリスナーがレニーだった。この町きっての名物男。ふたりは意気投合し、やがてウースターにパンク・ロックのコミューンが生まれる。大勢でバンに乗り込み、ボストンへWillie"Loco"AlexanderやThundertrainを観に行く「バス・ツアー」が恒例行事となる。レニーは手製のファンジンを持参し、現地のバンドやオーディエンスに配ってまわったという。願いはひとつ。「ウースターにもパンク・シーンを!」だった。 さて、"Wormtown"。これはレニー命名によるウースターの音楽シーンを表す造語であり、ボストンの"Bosstown"に対抗したもの。直訳すると「虫の町」となる。なぜ“虫”なのか――?ブライアンが明快に答える。 「ほら、虫ってのは死にかけているものに湧くだろ?あの頃のウースターのようにね。レニーと初めて会ったとき、彼はこの町の現状についてそんなふうに表現した。その日から彼はLB Wormというあだ名を得た。そして、"Wormtown"はいつしか僕らの旗印となった」 「地元シーンの構築」。その機運は日に日に高まっていった。ふたりはボストンのバンドを招いてショーを行うべく、クラブを訪ね歩く。ところが、アタマの固いオーナーたちは彼らの話に耳を貸さなかった。クラブ・バンドはカヴァー曲をプレイすることが常識とされた時代。そのうえ、ハードロックが根強い土地柄。オーナーたちが子飼いにしていたのは、そうしたコテコテのメジャー予備軍であり、ボストンで発生しているロックの新しい波を察知する感性の持ち主などいなかった。ふたりは教訓を得る。「すべてを自分たちで行うより他に道はない」。ようやく1軒のバー、〈Circe's〉を見つけ、ここを拠点にライヴ企画を開始する。 「ひどく汚らしい店だった。ジャズやポエトリー・リーディングを売りにしてたらしいんだけど、てんで客が入っていなかった。僕らの力で50人から100人のオーディエンスを呼べると確信していたから互いの思惑は一致した」 77年夏、"Wormtown"の旗揚げであった。 Willie"Loco"やNervous Eatersらを目の当たりにし、地元バンドも俄然活気づいた。レニーはファンジン『Wormtown Punk Press』を立ち上げ、ブライアンは仲間らとレコード・レーベル〈Beast〉を開始した。そこから発表された『Wormtown'78』は、当時制作された唯一のオムニバス・アルバムであり、ウースター・シーンをあますことなく伝える好盤である。 ボストン"Rat組"のような熟練した演奏は望むべくもない。かといって、斬新なアート感覚もない。パンクへの衝動あるのみで、愚直なまでに真っ直ぐなロックンロールが全編を貫く。このカッペ臭さこそが、"Wormtown"の個性と言える。 なかでも頭ひとつ抜きん出ているのが、Blue Moon Band。ウースターの隣町・ミルフォードで76年に結成された三人組。 中心メンバーのBob Peters(Vo&G)とCathy Peters(Vo&Ba)は新婚ホヤホヤのカップル。もちろん、ブライアンの番組の熱心なリスナーだった。 「ある日、デモ・テープを持って遊びに来たんだ。キャシーはとても若く見えたから、てっきり、ふたりは兄妹だと思い込んでいた」 ラモーンズやキッスのコピーからスタートし、Willie"Loco"に刺激されオリジナルを手掛けるようになる。"Blue Moon"は地元にあるパブの店名、"Blue Moon Saloon"に由来し、のちに"Band"を加えた。77年、80年にBeastから2枚のシングルを発表している。なかでも出色は2nd収録の'Wild Weekend'。キャシーのリード・ヴォーカル。『オールディーズ・ゴールデン・イヤーズ』といった類のCDで聴けるようなダンサンブルなポップスを、倍速ビートでリメイクさせた単純明快なポップ・パンク・チューン。無邪気さがまぶしい。 精力的な活動が実を結び、バンドはボストンにまで活動の場を広げる。橋渡しをしたのは、Varulvenレーベルのオーナーであり、ボストンいちの世話役、Joe"Count"Viglione。氏の主宰するショーケース・ライヴ「Rock&Roll Spectacular」に出演し、〈Cantone's〉のレギュラーをものにした。 今回、その頃の様子について氏にコメントを求めたが、「あぁ、Blue Moon Bandはいいバンドだったね」の素っ気ない一言に終わってしまった……。他人のこととなると極端に口数の少ない氏である……。かわりに、Carl A Biancucci(*Tea In China→Classic Ruins)がWormtownの思い出について語ってくれた。 「Wormtownにはよくバンドで遠征した。ご機嫌なナンバーを聴きながらワイワイやって1時間のドライヴを楽しんだものさ。〈Ralph's〉のメシはサイコーで、地のバンドもクールだった。ここでは、『Johnny Thundersの幻のライヴ』なんていう“事件”もあった。この地で初めてのジョニーのライヴ、ヤツがステージにあがった瞬間に警官がドカドカ侵入してきて、なにかのかどでヤツをパクっていっちまった。それで、ライヴは中止になったと。まぁ、それはともかくとして、Wormtownの連中はロックに対して食いつきがいいんだ。ショーでは毎回、物凄いリアクションが返ってくる。学生が多い町だから、若いエナジーがシーンを突き動かしていた感じだったね」 カールの回想にある〈Ralph's〉とは、イタリアン・レストラン。初代“殿堂”の〈Circe's〉が78年9月に閉店以降、新たな拠点としてシーンの一端を担った。ボストンの〈Cantone's〉もまたイタリアン・レストランであり、なにかと共通点の多い二つのシーンである。それは単なる偶然としても、バンドを取り巻くラジオ局・Zine・クラブの三者からなるトライアングル・ネットワークは、一見「ボストン・シーンのミニチュア版」とも映る。しかし、シーン構築の苦労は「本家」の比ではなかったといえる。彼らのまわりには、物分かりのよいクラブ・オーナーもいなければ、気の利いたレコーディング・スタジオもなかったのだ。作品のほとんどが〈Basement Tapes Studio〉で録られているが、「スタジオ」とは名ばかりで、友人宅の地下室をそう呼んだもの。さらに言えば、ラジオ局の規模の違いが歴然としている。ボストンにはWBCN-FMがでんと構え、さらに全米屈指のカレッジ・ラジオ局WTBS(*現WMBR)がある。方や、ウースターのWCUWはいかにもしょぼいコミュニティー局。 素朴で、どこかほのぼのとした、それでいて熱い。まさしくDIYによって築いたシーンであり、ひとつの理想形を見る思いである。 "Wormtown"の名は次世代に受け継がれ、今もシンボルとしてある。音楽シーンのみならず、町のあだ名としても親しまれるところとなった。しかしここ数年、シーンは衰退期にあるとブライアンは感じている。 「バンドにとって、友人や会社の同僚以外の人々をライヴに来させることが困難になってきている。音楽ファンが地元バンドに触れる機会、発表の場が非常に少ないからだ。バンド側にも問題がある。底辺でくすぶっている連中が実に多い。彼らが助けを求めて来るなら、我々(マスコミ)も力になってやるのだが、まったく連絡してこないところをみると、現状にじゅうぶん満足しているんだろう」 時代の流れ、でもある。古くからのクラブが店を閉じ、ラジオ番組やショーケースが相次いで終了。かわりに現れたのは、町中心部をすっぽりと占拠する巨大ショッピング・モールだという。経済効率優先の開発、取ってつけたような都市化により、横並びの文化がはびこり、それがもてはやされる。地方の没個性化の波は日本だけではないようだ。 そんななかにありWDOA-FMは、かつてのWCUWの雰囲気そのままに、Wormtownの伝統を今に伝えるラジオ局である。レニー(LB Worm)は現在ここでDJを務める。オフィシャル・サイトでは、地元+ボストンのバンドの最新ライヴをたっぷりと聴くことが出来るので、マサチューセッツのパンクに興味のある方は是非ご一聴頂きたい。 ブライアンへのインタビューのなかで、DJを始めたきっかけについて、非常に印象的な回答があったので紹介したい。 「僕らはビートルズやストーンズを聴いて育った世代だけど、60年代のウースターはロックンロールを楽しむに最適な環境だった。地元のAMラジオにグレイトな番組があったんだ。常に70以上のヒット曲がオンエアされて、さらにはローカル・バンドの珍しいレコードまで聴くことが出来た。僕はそうしたローカル・バンドが大好きだったから、その伝統をちょっとばかり受け継いでみたかったんだ」 「WCUWはとても小さなラジオ局だったから、放送エリアが限られていた。高性能なアンテナがなければ、町の外からは聴くことは出来なかったんだ。なかには屋根に登って聴いてくれる人もいたけどね」 ブライアンは地元紙の記者を経て、現在もライターとして多忙な日々を送る。Blue Moon Band夫妻はのちに離婚したが、バンドは90年代前半にいちど再結成している。互いに今もミュージシャンである。 追記:'Main Street Rag'は77年11月に、'Wild Weekend'は80年夏にそれぞれリリースされた。プレス枚数は共に500。前者にはバンド・メンバー手製によるピクチャー・スリーヴが10枚程度作られたというが、スナップ写真やバンド・ロゴをスコッチ・テープで貼り付けただけの粗末なのもので、言うなれば「お遊び」。盤はプレスしたもののスリーヴまではとても資金が足らない。しかし、スリーヴは作りたい――という一途な想いが微笑ましい。写真②は'Wild Weekend'のオリジナル・スリーヴ。ドラムスのMike Zadrogaの弟なる人物がデザインしたもの。これまた曰くがある。「その若僧にデザインを頼んだものの、待てど暮らせどいっこうに作ってこないんだよ。しびれを切らした僕は、自分でデザインしたモノをいくつか作り、先に売り出すことにした」。現在ではオリジナルよりも、“代替品”スリーヴのほうがマニア垂涎のアイテムとなっているのだから面白い(*当然、筆者未所有。見たコトもございません)。さらにオチ。「やっと作ってきたかと思えば、なんとそれは長方形だった。レコード屋の棚に収めるには、正方形に折りたたまなければならなかった」。写真は折りたたみ前。これをどう正方形にしたのかは不明。 追記2:ついでにもう一丁。『Wormtown'78』の制作秘話。「あのLPは78年の夏、僕がクロム“クソ”メッキ工場で一日12時間も働いて、ようやく得た金で作ったものだ」。どおりで、今もさびついていないわけだ!レコード一枚出すことは今も昔も容易くない。バンド・メンバーやレーベル・オーナーの血と汗と涙の結晶、それがインディー・レコードである。 追記3:"Wormtown"のネーミングの由来について、ブライアンはもうひとつのエピソードを語る。「当時、ウースターには『Small Apple』という情報誌があった。NYの"Big Apple"にあやかったような。レニーによれば、この町がリンゴだとしたら、俺たちはそこに巣食う害虫だと。そこからもじって"Wormtown"としたと。しかし、これは誤り(こじ付け)だと思う。彼はいつも最初のハナシ(死にゆくものには虫が沸く)をしていたからね」 追記4:「共にいいラジオ局があった」(Joe Viglione)。「ボストンから見たウースター・シーンの印象。共通点、もしくは相違点について」という質問に対する氏の回答。「ウースターには一貫して"Fun"の姿勢があった。WCUW、ならびにBrian Goslowの功績を称えたい」。WCUWの実力の程が窺い知れる一言である。看板DJはブライアンだけでなく、彼の先輩でBob Jordanという腕利きがいた。嗜好は違えども、ブライアンにDJの手ほどきをした人物。ちなみに、このボブの弟が〈Basement Tapes Studio〉の“オーナー”。身近な繋がりからシーンが発展していったことがわかる。78年3月には、局主催ライヴでPere Ubu とSuicide Commandosを呼び、これを成功させている。 ![]() ![]() Special Thanks to Brian Goslow, Joe"Count"Viglione & Carl A Biancucci ![]() Anne Rearickさんが送ってくれたウィリーの近影。Boom Boom Band再結成ライヴの一こま。後方で“蘭丸モデル”のSGを操るのはBilly Loosigian。(クリックすると素敵な壁紙になります) 当ブログをご覧の皆様、いつもありがとうございます。更新がめちゃくちゃ遅くてすみません。諸事情により2月中旬までこれを行うことが出来ません・・・・。パワー・アップして戻って来ますので今しばらくお待ちを!
Let's Make The Scene b/w Then I Kissed Her [US:Razor●STARS-102] 7" 1977
Little G.T.O. b/w Holocaust On Sunset Blvd. [US:Bomp!●BOMP-127] 7" 1978 Los Angeles (CA) この秋、ロック・ファンの間で話題の映画といえば、なんといってもラモーンズの 『End Of The Century/エンド・オブ・ザ・センチュリー』だろう。解散から8年の時を経て語られる一大ドキュメンタリー作品。9月に試写会が行われ、音楽各誌で大きく取り上げられた。11月27日からいよいよ封切りとなる。但しこれは東京に限ったハナシ。地方に住む我々にとっては、果たしてフィルムが無事に“南下”(あるいは北上)してくれるのか?が目下最大の関心となっている。 そんなフィーバーの最中、もうひとつのモノ凄いロック映画が密入国していた。10月の東京国際ファンタスティック映画祭にて一夜限りで上映された『Mayor Of The Sunset Strip/メイヤー・オブ・サンセット』(監督:ジョージ・ヒッケンルーパー)がそれだ。LAのFM局、KROQの名物ディスク・ジョッキー、Rodney Bingenheimerの半生を描いたドキュメンタリー。 誰それ?と問われるのも無理はない。日本はおろか、本国でもアンノウンな存在だ。LAのローカル芸人に過ぎない。だが、その映画にはデヴィッド・ボウイが、ブライアン・ウィルソンが、コートニー・ラヴが、グウェイン・ステファニーが、ノエル&リアム・ギャラガーが、その他大勢のロック・スターが出演していると聞けば、多くの方が興味を持つのではないだろうか。一般には知名度は低くとも英米のロック・ミュージシャンの大半はロドニーのことを知っている。ミック・ジャガーは顔写真を差し出され、一発でその名を言い当てた。ボウイはこの映画のために秘蔵ライヴ映像を提供した。ブライアン・ウィルソンはロドニーにちなんだ曲を書き下ろしている。もちろん、ラモーンズも登場する。これはますます放っておけない。 と、ここまで煽っておきながら情けない話、筆者はこの映画祭を観て来たわけではない。本国版DVDを英語も理解出来ぬままに観ただけなのだ。しかし、そんな条件下においてもこの作品は衝撃的だった。ロックンロールの素晴らしき歴史、その歴史が現在も継続中であること、自分が目撃者であること、それら全てに幸せを覚えた。これに字幕が付き、大音量で観ることが出来ればどんなに素晴らしいことだろう。 ささやかながら少しでも関心が集まり、劇場公開となることを祈願し、今日はこの男についてとことん語りたい。 ロドニー・ビンゲンハイマーは40年代末、サンフランシスコ郊外のマウンテン・ヴューという町に生まれた。3歳の時に両親が離婚。母・マリオンによって育てられた。この人が相当に変わり者であったらしい。無類の芸能人好きで、サイン蒐集家。家の中はスターのピンナップだらけ。そんな環境に育てば子供は自然に素養が身につく。母に負けず劣らず、トップ40とスクリーンの世界に魅了されていく。ロドニーがLAに移り住む切っかけを作ったのも母だった。というよりも、それは事件だった。 65年、ロドニー16歳の頃、母子はコニー・スティーヴンスからサインをもらうことを計画し、車でハリウッドに向かった。コニーの邸宅前に到着すると母はロドニーを車から降ろした。さらに彼のスーツケースを降ろし、「幸運を祈る」 と言い残すとそのまま車で走り去り、二度とその場所へは戻って来なかった。 運悪く、この時コニーはロケで不在。居たとしても簡単にサインを貰える筈もない。こうしてロドニーは、ひとりLAでの生活をはじめることとなる。たどり着いた先はサンセット・ストリップだった。 Whisky A Go-Goに象徴されるポピュラー音楽のメッカ。この街に溶け込むことにさほど時間はかからなかった。なにしろ、大好きなモノが毎晩、眼前で繰り広げられている。ひたすらバンドを追っかけ回し、グルーピーの一団のマスコット・ボーイとなる。何事にも控えめで献身的な性格はミュージシャン達にも可愛がられた。しまいにはソニー&シェールが親代わりとなり、ロドニーの生活の面倒をみたという。 おとぎ話はさらに続く。職を得るべく、ロドニーは9月8日付け新聞広告に掲載されたテレビ新番組の出演者オーディションに応募する。これが、かの有名な 「モンキーズのオーディション」 であった。応募総数400余名。400/4の栄冠を射止めることはなかったが、のちにエキストラとして採用される。デイヴィー・ジョーンズに背格好がよく似ていたことから、デイヴィーの“影武者”として芝居に加わることもあった(*第21話『The Prince And The Pauper』に登場。デイヴィーが一人二役を演じた芝居、2ショット・シーンでその片方を演じた)。 モンキーズ・ショー出演により得られたもの、それはTV局、コンサート楽屋への“通行証”だった。芸能界がぐっと近づいた。これを「芸能人になれるチャンス」ではなく、「芸能人に会えるチャンス」と捉えるところが彼を彼たらしめる所以である。歌番組では観客役を嬉々として演じた。『メイヤー』でロック・スターとの2ショットが次から次へとフラッシュされる様は圧巻である。エルヴィス、ジョン&ヨーコ、ビーチ・ボーイズ、ヘンドリックス……まるでロックの歴史書にロドニーの顔を合成したかのような錯覚に陥るが、紛れもなく彼はそこにいる。雑誌に紹介された一文が当時の彼をよく表わしている。「もしも君たちがロック・スターに会いたければ、まずはロドニーくんと知り合いになることがいちばんの近道だ」。バンドとグルーピーの間に立つ交通整理人だった。 70年代に入ると豊富な経験と人脈が買われ、『Go』、『Phonograph Record』などの音楽誌でコラムニストとして働く(*『Phonograph Record』にはBomp!のGreg Shawもエディターとして在籍)。ここでの評論が認められ、キャピトル・レコーズから仕事を要請される。当時駆け出しの新人、リンダ・ロンシュタットをプロモートした。さらにここでの仕事も認められ、マーキュリーにヘッド・ハントされる。出世街道まっしぐら。この時、はじめてデヴィッド・ボウイと出会う。71年1月、『世界を売った男』のプロモーションでLAを訪れたボウイを各ラジオ局へ連れて行き、積極的に売り込んだ。これが縁で同年後半からロンドンへ渡り、ボウイと約一年間行動を共にする。『ハンキー・ドリー』の録音にも立ち会い、ロッド・スチュワートやロン・ウッドらともハング・アウトした。70年代前半のロンドンで最もエキサイティングな時代を満喫した。 翌72年、帰国したロドニーはサンセット・ストリップにナイト・クラブ、“E-CLUB”をオープンする。“E”は“English”を意味し、在英中にボウイと毎晩のように通ったロンドンのクラブの雰囲気を再現したものだった。ここで産直のグリッター・ロックをガンガンにプレイした(*ロドニーは”グラム・ロック”とは決して呼ばない)。もちろんライヴも行われ、イギー・ポップが、アリス・クーパーが、閃光を放った。店はたちまち評判となり、連日客が押し寄せて手狭となったために別場所に新装開店。店名を“Rodney Bingenheimer's English Disco”と改めた。この頃には既にカルチャーとなっていた。エルヴィスがたびたび来店したという事実でその反響のほどが窺える。酒、薬、女にまみれたクレイジーな日々。サル・アモスはロドニーを“サンセット・ストリップの町長”と呼んだ。 一世を風靡した店も、75年、グリッター・ロックが下火となり、代わってディスコ・ブームの波が押し寄せると急激に衰退。あくまでもロックンロールに拘ったロドニーは潔く店を畳んでしまう。このあたりに彼の強い信念を感じる。今日まで彼が世に紹介してきたバンドは種々雑多であり、ある意味無節操にも映るが、やはり、芯に“ロックンロール”があるという一点において全てのバンドが共通している。 ロドニーの次なるプロジェクトはラジオ界への進出であった。ここからが現在へと続く彼の姿である。76年、KROQで「Rodney On The ROQ」という番組をスタート。週末のゴールデン・タイムを受け持った。第1回のゲストはラモーンズ、電話ゲストはランナウェイズ。パンク・ロックの波をいち早く察知し、それを誰よりも世に広めた。彼の手により、はじめて電波に乗ったバンドのなんと多いことか。羅列すると紙面が尽きてしまう。 このパンク期には、なによりも地元カリフォルニアのバンドに並々ならぬ愛情を注いだことも注目すべき点だ。Germs、X、Weirdosといった一筋縄ではいかない連中を束ねた。サウス・カリフォルニアを中心とした2ndジェネレーションの動きにも俊敏だった。期待のホープを集めたコンピレーション・アルバム、『Rodney On The ROQ』全3巻を編集した(*80~82年)。中でもバングルズは秘蔵っ子だった(*当時はまだ“Bangs”と名乗っていた)。それぞれ初回プレスには雑誌『Flip Side』の増刊号が付けられ、全収録バンドをインタビューを交えて詳しく紹介した。リリースはPosh Boy。ラジオ局、ファンジン、レーベルの見事なメディア・ミックスであった。 この時期、ロドニー自身もヴォーカリストとして(ユニット)バンドを率い、いくつかの作品を残している。単独作2枚をまとめて紹介しよう。 77年リリースの'Let's Make The Scene'が最初の作品。プロデュースならびにメインの演奏を務めているのはStars In The Sky And The Milky Way Bandのメンバーであり、フィル・スペクターのアシスタント・エンジニアだったDan & David Kassel兄弟。スペクターと深い関係にあった故バーニー・ケッセルの息子達。ふたりはこの時期、ゴールドスター・スタジオでいくつかのインディー・バンドの録音を行っており、おそらく本作も…とみるのだが、残念ながらスリーヴに記載がない。ラウドなギター・サウンドに乗って“Let's Make The Scene!”とアジテートするヴォーカルはなかなかの迫力。B面はガラリと変わって、思い入れたっぷりにクリスタルズを歌い上げる。サウンドもまんまスペクター。門下生が師匠から与えられた課題に取り組んでいるかのようで面白い。 2ndはBomp!から。Ronny And The Daytonasよろしく、Rodney And The Brunettesと名乗り'G.T.O.'をカヴァー。意外に知られていないが演奏はブロンディである。さらにコーラスには、あのHoneysを復活させるという贅を尽くしたラインナップ(*バンド名の「黒髪」は彼女達にちなんだと思われる)。クレム・バークのかっ飛びのドラミングが聴きもの。B面はいかにもGreg Shaw好みのサイケデリックで演奏はケッセル兄弟。 ちなみに同時期、同じくBrunettes名義で'Surfin' Safari'も録音しているが、こちらの演奏はなんとラモーンズ!彼らが四人揃って他者とコラボレーションを行うことは極めて希であり、本作以外には『Rock'n' Roll High School』OSTでのPaley Brothersとの共演があるのみ。ましてや覆面バンドを演じたなどということは、後にも先にもこの時だけである。あの石頭のジョニーがよくも許したものだ……。このあたり、やはりロドニーの人望というべきか。ここでもHoneysがコーラスをつけている。 'G.T.O.'、'Surfin' Safari'は共にロドニー&ケッセル兄弟が後年編集したアルバム 『Rodney Bingenheimer's All Year Party!』('84)で聴くことが出来る。他にもアネット・フニセロ&フランキー・アヴァロンの往年の名カップルを復活させ、ヴェンチャーズに演奏をさせたりと、仕掛けが盛りだくさんのアルバム(*Nikki And The Corvettesのここでしか聴けない曲もある)。中古市場で安価にて入手できるので、見かけたらぜひ手にしてみてほしい。 2004年現在、ロドニーは今もマイクの前に座り、ふにゃふにゃしたハスキーな声でロックンロールを発信し続けている。放送時間は日曜深夜という日陰のポジションになったが、依然としてファン、バンドへの影響力は大きい。日本に居て彼のDJを聴くことは叶わないが、放送の翌週にプレイ・リストがKROQのオフィシャル・サイトに掲示される。オールタイム・ベストな選曲が大半を占めるが、その中には過去の知られざる名曲、そして未来のヒットが潜んでいる。 『メイヤー』のあらすじを交えつつ、駆け足でロドニーの半生を紹介してきたが、あらためてそのバイタリティーに感じ入る。富も名声も得られない裏方の仕事。それを五つのディケイドに渡り継続するのは容易いことではない。しかも常にストリートの最前線に身を置いて。その原点、そして原動力となったものは母の存在であり、少年期に満たされなかった家族愛にあるように思える。足りない愛を偶像化し、形あるものに求めた結果、ロック・シーンが彼の“家”となった。それでもロドニーの家族への想いは止まない。冒頭のエピソード、ハリウッドに置き去りにされた彼は再び母に会うまでに五年の歳月を要したと言われる。後には毎週のように電話で話し、母をたびたびLAに招いたという。その母も数年前に他界。『メイヤー』のなかで別れの儀式を一人行うシーンや、名目上の父と継母、継妹の家を訪問し、終始アットホームな雰囲気ながらも、歓迎されざる客となっているシーンには胸を裂かれる。父宅にたった一枚しか残されていないロドニーの写真。そこには、切ないまでに家族愛を求める孤独な少年の姿が映し出される。 LAのシーンを長年共に盛り上げてきた『Flip Side』も数年前に廃刊となり、かつての盟友・Greg Shawも今年逝った。寂しい身辺だが、さ来年は「Rodney On The ROQ」放送30周年を迎える。派手にファンファーレが鳴らされるわけでもなく、小さなケーキに灯を点すだけで、それを吹き消し、今までどうりにロックンロールを発信し続けることだろう。その姿にただただ拍手を贈りたい。 『メイヤー・オブ・サンセット』の公開を切に願う。 -レコード作品に関する追記- 追記:'Let's Make The Scene'には“New Single”とうたってあるが、本作以前の単独作は確認されていない。スリーヴはフライヤーの転用ゆえに横長の形状。二つ折りにし、両端がステープラーで綴じられている。スリーヴなし+インナー・シートという仕様もある。 追記2:'G.T.O.'にはちょっと面白いエピソードがある。これは最初、デビーのヴォーカルで録音された。ロドニーが歌う際のガイドとしての目的で、完成作ではデビーの声は微かに聴き取れるダブリング効果程度のミックスとなっている。Bomp!に続いて英Londonからもリリースされたが、ここではデビーのヴォーカルだけに差し替えられた。まさか 「ブロンディ」と名乗らせるわけにもいかないので、New York Blondes featuring Madame X(*Madame X=デビー)とし、B面・Rodney And The Brunettesとのカップリングという形になっている。スリーヴは付いていない(*London配給のBomp!シリーズは全作スリーヴなし)。これに倣って独Lineも同ヴァージョン、スリーヴ付きでリリースした。「クリサリスにどうかバレませんように」との祈りを込めてデビーの顔写真に目隠しがしてある。バンド名は誤記でAB面共に“New York Blondes”。Lineはさらに面白いことを考えたもので、プロモ用12インチを“ダブル・グルーヴ盤”で製作している。溝が2本切ってあり、1本の溝に針を下ろせばロドニーのヴァージョン、もう1本には“秘密”のデビー・ヴァージョンというユニークな代物。バンド名表記はなく、“Sing along with the Brunettes”とする徹底ぶり。ここまでシークレット性を強調すると逆に業界で話題となって足が付いてしまうのではないかと思われるが、意地でもこういうコトをやりたかったのだろう。Lineはホントに素敵なレーベルである。プレス枚数は100枚以下と云われ、現在ではブロンディ・コレクター垂涎の的となっている(当然、筆者未所有)。これら以外に、同様のデビー・ヴァージョンで米Razor盤もある。前述のケッセル兄弟のレーベルで、これはプロモ盤ホワイト・レーベル(+手書きインフォ)の存在しか確認されていない。番号は「#104」とあるので、リリースする予定だったものの、英Londonに先を越されてお蔵入りになったという説がもっぱら。 追記3:これらの作品以前にも、いくつかのバンドでゲスト(ちょい役)の経験があるとされるが筆者未確認。唯一確認出来るものでは、フランク・ザッパ・プロデュースによるグルーピー・ユニット、GTO'sのアルバム『Permanent Damage』('69)。タイトルもスバリ、'Rodney'という曲でコーラス(というよりも語り)をやっている。<僕はソニー&シェールの友達で/ジョージ・ハリスンといっしょに瞑想したこともあるんだぜ>などと彼自身のことが面白おかしく歌われる。ユニットのリーダー格であったミス・パメラはのちに「伝説のグルーピー」と呼ばれる例の人物。彼女の著書の中には、「サンセット・ストリップ界隈で最初に知り合った人物」としてロドニーの紹介がある。『メイヤー』にも夫のマイケル・デ・バレスと共に出演している。 再追記:'Let's Make The Scene'が録音された場所はゴールド・スター―― という筆者の読みは見事にハズれていた。ダン・ケッセルによれば、それはチャイニーズ・シアター近くにある"hole-in-the-wall studio"で行われたという。バンド・メンバーは彼らのほかにBlake Xoltonと、彼らの腹違いの弟であるMickey Rooney Jr。そして、RunawaysのLita Ford。リタはバッキング・ヴォーカルを務めている。 再追記2:'G.T.O.'の録音はゴールド・スターで行われた――これは正解。'Holocaust on Sunset Blvd.'はケッセル兄弟とブロンディのChris Steinの共作。'G.T.O.'のデビー・ヴァージョンのリリースを取りやめた理由は 「それじゃ、僕のヴァージョンがかすんじゃう」 とロドニーからクレームがついたことによる。のちに、London配給英Bomp!からリリースされたことについてケッセルは、"Bootleg"という言葉を用い、「グレッグ・ショウにまんまとやられた」と語る。 再追記3:ラモーンズの'Surfin' Safari'もブロンディと同時期にゴールド・スターで録られたもの。映画『Rock'n' Roll High School』の撮影でLA滞在中の78年末、撮影の合間を縫って行われた。このとき、ラモーンズは同曲と'Slug'の2曲を吹き込んだ。ヴォーカルはいずれもジョーイ。ロドニーのヴォーカルは後年、彼らが勝手にかぶせたもので、当初は計画になかったらしい。ロドニー・ヴァージョンは前述のとおり、『All Year Party!』に収録。'Slug'はラモーンズの『All The Stuff And More Vol.2』他にアンリリーストとして収録。ジョーイ単独ヴァージョンの'Surfin' Safari'はいまだ日の目を見ることなく、ケッセルの手元に残る。 再追記4:ハナシがどんどん横道に逸れるが、ケッセル兄弟の作品についても紹介しておきたい。76年にStars In The Sky (and The Milky Way Band) の名で発表したシングルが唯一の単独作。そのうちの1曲はBomp!のVA『Experiments In Destiny』('80)に覆面バンド・Martians名義で収録されている。兄弟デュオというスタイルはPaley Brothersと同じであり、そんなことから両者は馬が合ったという。Paley Bros.は78年、スペクター・プロデュースにより1曲(ディオンの'Baby, Let's Stick Together')をゴールド・スターで録音したが、未発表に終わった。このセッションにはケッセル兄弟も演奏者として参加。ドラムはJim Keltnerが務めたのだとか。Jonathan Paley監修によるPaley Bros.の未発表曲集のなかで発表されるとのアナウンスが数年前にあったが、作品自体リリースされておらず、いまだ日の目を見ていない。 ![]() ![]()
今回、ウィリー・アレキサンダーに関する膨大な資料、情報を提供してくれたPaul Lovellから、更にとどめの一撃が届けられた。'Kerouac'の1stプレス、通販限定で付けられたウィリー手製のピクチャー・スリーヴ&その他諸々の画像。Paul の解説と併せて紹介したい。
左上:スリーヴ表面: 「スリーヴは二枚のカード・ボードで構成されている。これは郵送の際にディスクを保護する目的としても使われた。ウィリーの顔写真をあしらったフライヤーが糊で貼り付けられている」 左下:スリーヴ裏面: 「僕がオーダーしたのは丁度クリスマス・シーズンだったので、"Merry Christmas"の メッセージが入っている。カラーが赤と緑なのもそれを表している」 中上:インサート・シート: 「ケルアックの写真をあしらったシート。この時代の典型的な遺物。パンク・バンドの多くは、通販の際に何かしら余計なモノを封筒の中に入れたがったものだ。この教えに習って僕がレコードを出した際にもそうした」 中下:イエロー・レーベル: 「僕のコピーは黄色」*デザインはすべて共通している。 右:新聞の切り抜き: 「発売当時、地元新聞に掲載された記事。 おそらく『Boston Phoenix』だったと思う。僕はこれを見てオーダーしたんだ」*写真をクリックすると拡大できます。 Paul Lovellは70年代中頃から80年代初頭にかけてボストン・パンクの第一級シーンスター(=“顔的存在”“超常連客”)であった人物。フォトグラファー、ファンジン・ライターとしてシーンに関わった。コメディアンでもあり、Blowfishの名で一人芝居を収録したシングルを発表した。音楽はど素人(失礼)だったが、しまいには上達してプレイヤーにもなった。彼の作品は次章(B)で詳しく紹介したい。 現在もボストンに住み、ギグに通い、新旧のバンドを応援し続けている。彼が運営するサイト『Paul Blowfish Lovell』はボストン・パンクの知識の泉である。事実のみを抽出したアーティクル、データは多くの信頼を集める。未見の方はぜひ。 Special thanks to Paul "Blowfish" Lovell from www.punkblowfish.com for giving me these pics of his collections and valuable information about Willie Alexander. ![]()
Kerouac b/w Mass.Ave. [US:Garage●WA-5005] 7" 1975 Boston(MA)
“ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの末裔”。昔も今もこの肩書きが付いて回り、それ以上の興味を持たれず、評価もされない。しかし、ボストン/マサチューセッツのパンク・ロックの歴史を語る上においては、第一章第一項に必ず登場する。単に“ローカル・スター”の一言では片付けられない人物。 ざっと経歴を紹介しておこう。ウィリー・アレキサンダーは43年1月13日生まれ、ペンシルヴァニア州フィラデルフィア出身。牧師である父親の赴任地、ロードアイランド、マサチューセッツ両州を転々とし育った。教会が幼い頃の遊び場代わり。「母は聖歌隊で歌い、ピアノとヴァイオリンを演奏していた。僕にピアノのいろはと芸術の楽しさを教えてくれた」。15歳のときに父親と死別。継父として迎えられた人物もまたアマチュア・ミュージシャンであり、音楽に親しみやすい家庭環境にあったようだ。更には、ロックンロールの誕生をリアル・タイムで体験したことが、音楽に傾倒する大きな要因となる。「ラジオを聴くことが大好きだったね。ジョニー・レイにエルヴィス、ファッツ・ドミノやボ・ディドリーらがティーンの頃のアイドルだった。成長してからは、デューク・エリントン、ファッツ・ウォーラー、セロニアス・モンクなどのジャズも好んで聴いた。アフロ・キューバ、ブラジル音楽からも影響を受けた」 大学進学でプレインフィールド(VT州)に移住した64年、最初のバンド、The Lostを学内で結成。一年後、学校を辞めボストンに移り本格的に始動。Capitolと契約し三枚のシングルを残した。ここでの音源は近年、60sガレージ・パンク再評価の中で優れた作品のひとつに数えられる。 67年1月Lost解散後、Bagatelle、Grass Menagerie、Nonie Blues Bandを経て、Grass Menagerie時代のパートナー、ダグ・ユール率いるヴェルヴェットに加入。71年秋の欧州ツアーでキーボディストを務めた。成功を掴んだかに思えたが、当時ヴェルヴェットは壊滅寸前。ツアーのギャラが殆ど支払われないなどのトラブルがあったとされ、それが元でかバンドを脱退する(*アルバム『Squeeze』にも参加する予定だったが、これを蹴っている)。 マサチューセッツ北部に移り、Bluesberry Jam Band(*w/Matthew MacKenzie&Scott Baerenwald, pre-Reddy Teddy)、Radio Hearts(*w/Gary Cook&Paul Carter, pre-Inflictors)などのローカル・バンドでプレイ。約三年間、気ままなジャム・セッションの日々を過ごした。 75年春ごろより、Lost時代のホーム・グラウンドだったボストン・ケンモアスクエアのクラブ、The Ratにて本格的に活動を再開。ウィリーの出現がイコール、シーンの誕生となる。当初はBoizeをはじめとしたいくつかのバンドをバックに歌っていたが、76年初頭に自身のバンド、Boom Boom Bandを結成。同年3月20日、ケンブリッジのThe Clubで行われたバンド・コンテストにて初舞台。これに優勝し人気を不動のものとする。バンド名はライヴ・サウンドのノイズをウィリー流言語で表したもの(*同様に彼の辞書には"Ga Ga"なる言葉がある)。 78年にMCAと契約し、メジャー・シーンにカムバック。Craig Leonプロデュースによる二枚のアルバムを発表。その後、ソロ、コラボレイト、ゲスト参加と数多くの作品を残した。本年61歳となる今も現役で活動中である。 本盤は75年7月7日リリースの最初のソロ作品。上の年表でRatでの活動を再開し始めた頃にあたる。 'Kerouac'は題名どおり50年代のビートニク詩人・ジャック・ケルアックのことを歌ったもの。1stアルバムを<ケルアックに捧ぐ>とするなど、大のフリークで知られるウィリーだが、この曲、もともとはGinという名のガール・フレンドへのラヴ・ソングだった。書き進むにつれ、ケルアックのことへと詞の主題が変化していったという面白いエピソードを持つ。「(メロディの段階では)フィル・スペクターのような雰囲気の曲だと感じた。それでGinについて歌い始めた。バスタブに浸かっているときに一節がひらめいた。<You snuck up pretty fast, You snuck out of the past> これはケルアックへの想いを表すに相応しい言葉だと直感した。そして詩が変わった」。ちなみに、ここではフラれてしまった格好のGinだが、彼女への想いはのちに'Gin'という曲の中でしっかりと綴られている(*しかし、そのシングルのスリーヴのポートレートに写る女性はGinではなく、当時のウィリーの奥さん・Billie Montgomeryだというややこしいハナシ。ついでに言うと、このBillieさん、現在はジョー・ペリー夫人)。 'Mass.Ave.'は邦題:「マサチューセッツ通り」。セントラル・スクエアの喧騒や、スクエア近くにある音楽バー・The Cantabに夜な夜な集う人々の生態が独特なタッチで描かれる。「詩の多くは実体験に基づいている。サブジェクトやアイディアを日々の生活や、ストリートに居る人々の中から見つけることが好きなんだ。言葉は偽りのないものでありたい」 両曲ともにピアノを前面に出したバラードとR&B色の濃いロックンロール。酒臭い吐息で語りかけるウィリー。ファルセットを交えさまざまな表情を操るヴォーカルは得も知れぬ存在感がある。 ウィリー(Vo&ピアノ)の他にメンバーは、Scott Baerenwald(Ba&Cho*→Reddy Teddy)、Miranda Remington(ヴァイオリン*→Modern Lovers)。そして、Steve Cataldo(G)、Jeff Wilkinson(Dr)のNervous Eaters両名。もちろんこの頃Eatersは未だ無く、前身バンドにあたるFabulous Rhythm Assholes(*のちにDamp Stanceと改名)をマサチューセッツの北部、ベヴァリーという町でやっていた頃。以下はスティーヴの証言。 「ある日、新聞をめくってたら、偶然彼の名前を発見したんだ。Sandy's Jazz Clubっていうバーのピアノ・コンサートの告知欄に"Willie Alexander"と書いてあった。驚いたよ。ウィリーが60年代にやってたThe Lostは大好きなバンドだったからね。俺が16歳の頃の話さ。その彼が俺達の町に来てるっていうんだから大勢で観に行ったんだ。終演後、俺はウィリーに会い、俺達が演奏するからレコーディングをしないか?と持ちかけた。彼は即座に興味を示した。こうしてセッションが実現したんだ。車を運転できないウィリーをボストンから練習場所のあるベヴァリーまで送り迎えするのが大変だったことをよく覚えてるよ。ちょうどこの時期、俺達は既にNervous Eatersの構想があり、それに備えて曲作りに取り組み始めた頃だった」 スティーヴはこの時、地方のいちバンドマンというポジションだったが、数年前には既にメジャーでの経験があった。その彼がエキサイトした出来事だったというのだから、ウイリーのカリスマ性が窺い知れる。 このレコードを当時ウィリーの手から直接買ったという人は非常に多い。多くの若者たちが自らもバンドを始める強い動機付けとなった。本作がなければ、ボストンにパンクは生まれなかったとは言わないまでも、随分とちっぽけなムーヴメントとなっていたであろうことは疑う余地がない。 今回、幸運にも人を介してウィリーにメールで話を聞くことが出来た。自身についてありのままを、丁寧に、飾らぬ言葉で綴った文章が印象的だった。 追記:写真は2ndプレスの青レーベル、量産盤。1stプレスは赤、イエロー・レーベルの2種。いずれもピクチャー・スリーヴは付いていないが、ウィリー自らが窓口となって行ったメール・オーダーでは手製のスリーヴとインナー・シート、それにサイン&メッセージが添えられたという(*1stプレスのみ)。77年にBOMP!と独LINEから正式にスリーヴ付きでリイシューされている。 追記2:録音が行われたのは75年6月7日。場所はMA州北西部・ビラリカにあるMoon Studio。奇しくもこのビラリカはケルアック生誕の町・ローウェルの近くである。 追記3:'Kerouac'の歌詞に纏わるエピソードの補足として、発表当時、地元新聞に掲載されたインタビューの一文を引用したい。 <I wrote these lyrics in my bathtub in ten minutes last April after 16 years of thinking about Jack Kerouac>ウィリーのケルアック狂いはつとに有名であったようで、このことを譬えて彼を「新世代のケルアック」と紹介した記事もいくつか見られる。ローウェルで毎年10月に行われる"Kerouac Festival"にも何度か参加し、朗読を行っている。Henry Ferrini監督による映画『Lowell Blues』('00)にも歌、朗読で出演(*日本未公開、筆者未見)。93年には初のスポークン・ワード・アルバム『Private WA』を発表している。 追記4:スティーヴのインタビューには出てこないが、この出会いが縁となり、ウィリーはベヴァリーで行われたFabulous Rhythm Assholesのライヴにゲストで何度か加わっている。その数ヶ月後に本作の録音が行われた。 ![]() Special Thanks to Willie“Loco”Alexander, Anne Rearick, Steve Cataldo, Paul“Blowfish”Lovell & Joe Viglione ![]() Mach Bellがインタビューの冒頭で語っている「77年、(Thundertrainが)RATでRunawaysと共演した時」の現場写真。左からOedipus(*WTBS DJ)、Sandy West(*Runaways Dr)、Mach Bell、Jackie Fox(*Runaways Ba)。 Thundertrainのファン・クラブ会報誌『Thundertrain Photo-Magazine』77年夏号に掲載された一枚。同号のフォトグラファー・リストにはAnneMarieの名前も見られる。
Private World b/w Confidential Chat [US:Popular●PR001] 7" 1980 Holliston(MA)
先ごろ1stアルバム『Teenage Suicide』が日本でもリイシューされたボストンのアーリー・パンク・バンド、Thundertrain。そのヴォーカリスト、Mach Bellが絡んだ一枚。 両曲ともにマックの作だが、Thundertrain的世界を期待してはいけない。無機質なリズム・ボックスに合わせて無気力なシンセ、ギターが鳴り響き、さらに無感情な女性ヴォーカルがふわふわと漂う、無い無いづくしの自家製チープ・ウェイヴ。聴き終えた後に沸き起こる脱力感が最高だ。ある種のヒーリング・パワーがある……。 大音量のギターを核とした、ブルージーで豪快なロックンロールを強い特色とする同地のシーンにあり、かなり異色。そして、謎多きバンドである。マック自身がプレイしているとの噂もあるが、スリーヴに彼の名は無く、写真にも登場していない。バンド・メンバーも見覚えのない顔が並び、偽名を使っているのか誰が誰だか解らない。録音はJon Readなる人物の指揮のもとドイツで行われたとある。一説によればヴォーカルのAnnMarie嬢は地元のストリップ・ダンサーであったとのこと。そのあたり、当時の関係者に尋ねてみても、誰一人としてバンドの存在すら記憶していないのだから謎は深まるばかりだ。うーん……ミステリアス。いったい何者? 今回これらの疑問を解くべく、マック本人に質問状を送ってみた。すると、マックさん、とても親切なヒトで、労働祭で休暇中にも関わらず旅先から回答を寄こしてくれた。キャラクターどおり、ハード・ロキッシュな熱い語り口。少し長くなるが、その一部始終をここにお届けしたい。 77年、RATでRunawaysと共演した時、彼女達にとても興味を持ったんだ。まるでプレハブを組み立てるかのようにガール・グループを生産するKim Fowleyの素晴らしいアイディアにね。以来、いつかボストンにもガール・グループを作りたいと思い続けていた。 80年、Thundertrainが活動を停止したことで、僕は自分だけの時間を得られるようになった。 ボストンから30マイル離れたホリストンという町に実家がある。そこに移り住んで一人で音楽を作ることにしたんだ。ベッドルームをスタジオに改造し、Thundertrainの機材をまるごと放り込んだ。マルチトラック・レコーダーは近所に住む幼なじみのJon Readが提供してくれた。さぁ、何から始めよう?ってときにひらめいたのが、先のガール・グループのアイディアだったんだ。女の子のシンガーを一人づつピックアップして、"Popular Girls Series"と銘打ったシングルを展開していこうと決めた。当時、アンダーグラウンドなバンドのシングルはとてもポピュラーな存在になっていた。僕はこれにトレーディング・カードのコレクタブルな要素を加えたら面白いと考えた。”女の子”というテーマに絞ったシリーズ・パッケージ。「全部集めよう!友達同士で交換しよう!」みたいな乗りだね。手始めに選んだが、AnneMarieだった。彼女がストリッパーだったなんてデマもいいとこだよ。ま、人前でトップレスになったりすることが平気な性格ではあったけどね。ボストン大学の舞台芸術専攻の学生で、僕の元カノジョ。くっ付いたり離れたりの関係だった。 録音は全て僕の部屋だけでまかなえた。「ドイツのスタジオ」っていうのは単なるつまんないジョークだね。楽器は一晩か二晩で録り終えた。リズム・ボックスに合わせて僕はギブソンのSGを弾き、シンセで味付けをした。翌朝、アンマリーがやって来て、このとき初めて彼女に歌詞とメロディを教えた。つまり彼女はぶっつけ本番で覚えたての歌を歌ったってわけだ。期待どおりのパフォーマンスだった。一発でキマったよ。ミックスは15分で完了し、残りの時間はフォト・セッションに費やした。家の地下にある親父の写真用の暗室を使った。アンマリーはノリノリでセクシーなポーズをキメてくれたよ。Pistonsのメンバー写真も必要だったから、ジョンとRic Provost(*Thundertrainベーシスト)、それに僕の弟を呼びつけてバンドになりすましてもらった。写真に僕が写っていないのは、僕しかカメラを扱えなかったからだよ。 今、作品を聴いてみると、その頃のバンド観がよく現れている。Thundertrainの末期、スタジオ・セッションは政治的なプロセスになっていた。五人のメンバーが互いの主張に折り合いをつけて、曲作りを進めていくというあり方に嫌気が差していた。録音ともなると絶えず緊張するうえに、莫大なコストが掛かる。全てに決定権を持ち、自由に創作を行うには一人になるしかない。そして、もっと簡易的な方法でリラックスして録音を行い、多くの作品を世に出したかった。Thundertrainでは試せなかったシンセやリズム・ボックスへの興味もあった。とにかく、無の状態から一人で何か新しいことを始めたかったんだよね。 シリーズの第2弾はLindaという若い女の子を起用し、これまたいい録音が出来た。バンド名はLinda And The Perverts。ただ、残念ながらこれは作品として世に出せなかったんだ。同時期、Mag 4やJoe Perry(Project)とのバンド構想が持ち上がり、僕は再び誰かとバンドを組むことに興味を覚えた。それで計画は頓挫してしまった。シリーズがたったの一枚で終わったことは今でも残念だけど、 とても楽しい時だったよ。AnneMarie And The Pistonsは一度もギグを行っていない。そうした性質のバンドではなかったからね。 アンマリーはその後、ビル・グレアムの元で音楽ビジネスを学んだ。独立して億万長者になったんだぜ!今はそうではないけど。この7月にThundertrainのギグで久しぶりに会ったばかりなんだ。昔と変わらず美しい。「私にPistonsについて質問してくる人が今も時々いるのよ!ほんと、ビックリしちゃう」と笑っていたよ。 もう何も説明はいらないだろう。すべて氷解である。いわゆる"Rat Rock"の先駆けであり象徴であった彼が、非Rat Rockの最異端を生み出したという点が非常に面白い。また、このプロジェクトの後に彼が選んだ道はThundertrainを踏襲するバリバリのハード・ロックであったことも興味深い事実である。 Thundertrainは昨年オリジナル・メンバーで再結成し、活動は現在も続いている。79年のライヴを収めたアルバム『Hell Tonite!』を日米両国でリリースしたばかりだ。最後にマックからのファンへのメッセージを原文のまま掲載し、本稿を終わりとしたい。 Thundertrain is hungry to rock Japan! We are touring in America again already. Our new Gulcher cd is called "Hell Tonite!" and it is being released in Japan by Captain Trip right now. Thundertrain is looking for a hardworking Japanese hard rock / glam band to adopt us and set up some shows that we can play together in Japan! Mach Bell ![]() Special Thanks to Mach Bell & Carl A Biancucci
Beaver Cleaver Fever b/w Buffy Come Back [US:own label●no number] 7" 1982 Los Angeles(CA)
Bangles、Go-Go'sを輩出した80年代前半のLAは、まさしくガールズ・バンドの宝庫であった。このバンドに出会い、そう強く実感した。"All Girl, All Ex-Con(*前科者)Band"のキャッチ・フレーズが勇ましくも微笑ましいハリウッド娘4人組。82年作。 率いていたのはHillary Carlip(=Angel)という女の子。幼い頃から映画やTVドラマに強い関心を持ち、コメディの台本作りを趣味で始めた。その延長で音楽にも挑戦。作曲をし、メンバーを探し、バンドを結成。録音を行い、レーベルを立ち上げた。出来上がったのが本作品。という、どこにでもあるありふれた話だが、14歳という年齢でこれらを全て一人で行ったというから驚きである。 バンド名は「再放送」を意味し、歌詞は二曲とも米50~60年代のTVコメディ・ドラマにちなんでいる。日本ではなじみがなく、筆者もてんで知識がない。受け売りながら紹介しておくと、'Buffy Come Back'はAnissa Jonesなる子役のことを歌っている。"Buffy"は劇中の役名。 76年に18歳の若さでドラッグの過剰摂取により他界した彼女への追悼歌。"Why'd ya have to go O.D.?"(*O.D=overdose)と歌われる。DJ・Rodney Bingenheimerで有名なKROQで長期に渡りプレイされた。'Beaver Cleaver Fever'はドラマ『Leave It To Beaver』の情景を描いたもの。"Beaver Cleaver"は主人公の少年の名前。 いわば、“企画もん”なのだが、それに留まらないのは楽曲のクオリティの高さにある。とびっきりポップでついつい口ずさんでしまうメロディ。ラジオから流れるロック/ポップスよりも、やはりTVからの影響だろう。コメディの主題歌。まさしくそれとして通用するだけの完成度がある。ヒラリーのエキセントリックなヴォーカルも楽しい。それを裏付けるように、このレコードは全米メディアに広く注目され、バンドはTV出演も果たした。ヒラリーは念願の芸能界デビューだったに違いない。 この一作品を残して短命に終わったが、84年、トム・ハンクス主演映画『Bachelor Party』への出演要請がありバンドは再結成する。今でいう"5678's in 『Kill Bill』"を想像して頂ければ解りやすいか。いい場面で、書き下ろし曲'Why Do Good Girls Like Bad Boys'をクールにキメている(*バンドは映画用に新たにピックアップされたメンバー)。 映画出演を最後にヒラリーは音楽キャリアにピリウドを打った。その後は役者、劇作家、エッセイストetc…と、マルチな才能を発揮し、現在もLAで多分野に活躍している。01年にはティーンエイジャー向けのポータルサイト『VoXXy』を設立。女優・ジェニファー・アニストンをイメージ・ガールに起用し、これは日本でもニュースとなった。 追記:スリーヴはデザイン違いで二種存在する。写真は1stイシュー。 追記2:バンド・メンバーであり作曲パートナーだったMiriam Cutlerもその後、映画音楽の世界で才能を開花させている。 ![]()
”It's Cool To Rock”EP : Itty Bitty Baby / It's Cool To Rock b/w Bloody Disco / All Right / Sorority Girl [US:Wild Open●ACC 001] 7"EP 1979 Laramie(WY) → Los Angeles(CA)
全米で最も人口の少ない州、ワイオミングのこれまた小さな田舎町、ララミー出身の大学生バンド。78年秋に結成。当初はDirty Dogsと名乗り、地元および近隣するコロラド州のデンバーなどで活動していた。ララミーで唯一のレコーディング・スタジオで録音を行い、シングルを自主制作。その後Acceleratorsと改名し、LAに移住。79年に発表したのが本作だ。 プロデューサーはDanny Holloway。前年にShockの1stシングルを手掛けた人物で、録音も同じくハリウッドのMedia Artで行われている。ホロウェイはその後Plimsoulsと出会い、マネージャー兼プロデューサーを務めたことで知られるが、彼の趣味と言うべきか、Acceleratorsの音楽性はこの両バンドの雰囲気を合わせ持っている。破壊寸前に爆走するポンコツカーのようなスピード感+イントロ3秒で聴き手の体内に浸透し、みるみるパワーをみなぎらせるギター・プレイ。5曲すべて素晴らしいが、やはり'It's Cool To Rock'が傑出している。95年にVikingsが愛情たっぷりにカヴァーし、Acceleratorsが現代に注目される切っ掛けとなった一曲。 バンド解散後、ギターのEric AmbelはJoan Jettに抜擢されBlackheartsの初代ギタリストの座に就くも、NYで『I Love Rock'n Roll』を録音中に脱退。幻のメンバーとなった(*エリックが既に録り終えていた'Crimson And Clover'と'Little Drummer Boy'の2曲はそのままのテイクがアルバムに収録されたが、彼の名はクレジットされていない)。その後NYに残り、DictatorsのTop TenとDel Lordsを結成。ここでは6枚のアルバムを残している。 ![]() Special Thanks to S.A.K.of Five Speed
山口県在住、30代のロック・ファン(♂)です。
米国70~80年代のインディー・ロック(*punk/wave/powerpop/poprock/alternative etc...)のお気に入り7インチ・シングルをアトランダムに不定期に紹介していきます。 ライヴ・レヴューなども出来ればいいなと思います。 とりあえず3ヶ月間続けることを目標にがんばります。 コメントはユーザー、非ユーザー両方を設定しています。 お気軽にメッセージください。 表記方法 ■ブログタイトル部分:バンド名 ■記事ヘッド太字部分:順に、A面の曲名 b/w B面の曲名 [レーベル所在国:レーベル名●番号] 7"or 7"EP 発表年 活動都市名(州名) ※7"は2曲収録、7"EPは2曲以上収録をあらわします。 ※7"EPにタイトルがある場合は、A面の曲名の前に""EP:と記載します。 ※片面複数曲の場合、/ で分けます。AB面の切れ目はb/wであらわします。
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